manager LIFE

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第1話 – 私を知らない、あなた

私たちは皆、これから先の未来に「不安」を感じている。

もしあなたが、その「不安」を取り除こうとするのなら、あなた自身が描く素晴らしい未来を、私たちに示すべきだろう。

その未来で私たちが活き活きと過ごせることを、約束するべきだろう。

マーカス・バッキンガム
「最高のリーダー、マネジャーがいつも考えているたったひとつのこと」より

1

非常階段の踊り場で、スーツ姿の男が誰かと話している。手すりに寄りかかり、階下を見下ろしながら、携帯電話を手に佇んでいる。通話相手はよほど憤っているのか、男は先ほどからへこへこと、見えはしないのに頭を下げ続けていた。

やがて男は携帯を背広のポケットに入れ、その場にしゃがみ込んだ。数メートル離れたこちらからは、男の表情までは読み取れない。

「いや、向かいのビルの踊り場でさ、なんか深刻そうに話してるな、と思って」

伊藤がつられて窓の外に目を向け、「本当ですね」と言った。さして興味のなさそうな声音だった。

「飛び降りないよな」

「怖いこと言わないでくださいよ」

伊藤はとっくに窓から目をそらし、再びデスクトップの画面と睨み合っていた。眉間には控えめな皺が刻まれている。

「伊藤さん、何か問題でもあった?」

「いや、ちょっとしたことなんですけどね」

「伊藤さん、田中、明日の打ち合わせを軽くやっておこう」

そう声をかけると、心なしか二人の顔が緩んだように感じた。彼らにとって、初めて本格的に取り組んだ企画を、明日披露するのだ。緊張していないはずがないと思った。彼らの緊張を少しでもほぐしてやりたいし、僕自身も不安要素はできるかぎり排除しておきたかった。

ミーティングルームを借り、全体の流れのリハーサルから、細かな改善点まで綿密に見直した。当日は企画概要を伊藤に説明してもらい、詳細は田中が説明する手筈になっていた。

株式会社ワークカラットは、インターネット広告やメディア運営を中心に行っているⅠT会社だ。僕はこの春から「メディア企画開発部一課」のマネージャーに任命された。

「自分なんかが井田を追い抜いてもいいのだろうか」と、そんな思いに駆られるのは、ひとえに井田という男の聡明さにある。井田も田中と同様に寡黙な男だったが、二人の「沈黙」のニュアンスは、少し意味合いが異なっているように思う。田中は自信の無さからくる寡黙さだろうが、井田はそうではない。常に、相手を観察しているのだ。そして、相手の言動に間違いや漏れがあった際には容赦なく指摘し、指導する。
――こう言うと、彼が嫌味な人間に映りそうなものだが、社内の信頼は厚かった。「困ったときの井田」部長がそんなキャッチフレーズを口ずさむのを聞いたこともある。

マネージャーになった僕が最初に受け持ったプロジェクトは、「新サービスの立ち上げ」だった。僕たちの部署では、大小合わせて20のWebサービスを運用している。…が、どのサービスもリリースされてから相応の年月が経っていて、売り上げは徐々に下降していた。

そんな状況での「新サービスの立ち上げ」は、いわば「花形」の業務で、自然と部署内メンバーからの関心も集まった。ある人からは期待や羨望。そしてある人からは、「お前達が本当にそのプロジェクトをやれるのか?」というような疑念。──井田はきっと、後者の側だろう。僕は、その疑念を晴らしてやりたいと思っている。僕と同じくプロジェクトのメンバーになった、伊藤と田中のために。そしてもちろん、僕自身のためにも。

軽い打ち合わせのつもりが、細かな調整を行ううちにすっかり時間が過ぎ、オフィスに戻ったころには人もまばらだった。

「あ、雨降ってきましたね」

傘持ってきてないや、と伊藤が続けて言うのを聞きながら、僕は窓から目が離せずにいた。窓ガラスは半分が結露のため曇っており、外の様子をすっかり隠してしまっている。

僕はスーツの袖口で結露を拭った。向かいの非常階段には既に男の姿はない。かれこれ二時間近く席を外していたのだから当然のことなのだが、僕はほとんど反射的に階下を覗き込んだ。当然、そこに男の体が横たわっているはずもなく、濡れたアスファルトの黒い光沢が散らばっているだけだった。

「横井さん、どうかしました?」

伊藤が言った。

「いや、何でもないんだ」

「なんだか、今日はぼーっとしてますね」

そう言って彼女が笑った。

2

業務を終え、エントランスでエレベーターを待っていると、お疲れ様です、と後ろから声をかけられた。振り向くと、田中傑幸が肩をすぼめて立っている。

「田中も帰りか」

「あ、はい」

「家どこだっけ?」

田中は少し逡巡したのちに「西荻窪です」と答えた。エレベーターが5階に止まる。中には誰も乗っていなかった。

他に乗り合わせる人もおらず、僕と田中だけがエレベーターに乗り込む。田中はボタンの前に立ち、随分とまごつきながら「閉」のボタンを押した。そんな彼の後姿をぼんやりと眺めていると、彼の左の耳にピアスの跡があることに気づいた。

「明日、緊張してる?」

僕が尋ねると、彼はボタンを見つめたまま「少しだけ」と答えた。田中は首の後ろを執拗に揉んでいる。

「まあでも、できる限りの準備はしてきたわけだから。とにかく後悔無いように出し切ろうな」

努めて明るい声を出したつもりだったが、乾ききった密室の空気に、たちまち吸収されていくようだった。

1階のエントランスを抜けると、外の雨はだいぶ弱まっていた。道行く会社員は、傘をさしている人と、傘は持たずに伏し目がちに歩く人のどちらかだった。僕は傘を持っていたが、田中は持っていないようだった。

「どうする? 俺、一駅先だから歩いて帰ろうかと思ってたけど」

これから帰宅する彼のために、傘を貸してやるつもりでいた。一駅分くらいなら多少濡れてもどうにかなると思ったし、何よりこのまま田中と一緒にいることに居心地の悪さを感じてもいた。

田中はこちらが不安になるほど沈黙し、しばらくして「じゃあ、僕も次の駅まで歩きます」と答えた。

「そうか……わかった」

傘を田中の方へ傾けると、彼は小さく手を振ってそれを辞した。田中の真意が僕には分からなかった。

一つ目の交差点の信号が赤になり、僕たちは足を止めた。視界に入るのは同じように黒いスーツを着た会社員ばかりで、夜の空気も相まって、人々の影だけが一人歩きしているように見えた。

田中が何かを伝えようとしているのは分かったが、一向に話し出す気配は無い。彼の性格上、急かすようなことを言えばさらに口を閉ざしてしまいそうなので、僕は黙って待つことにした。

田中と伊藤は同期のアシスタントディレクターだが、二人の性格の違いは度々僕を悩ませた。
 伊藤は快活でチームのムードメーカーのような存在だが、思い立ったら後先を考えずに走り出す癖がある。慎重に事を運んでいたなら起こりえない些細な漏れがよくあり、そのたびに彼女は眉を八の字に歪め謝った。
 女性であること、そして彼女自身の性格を慮り、いつもある程度の境界線を引いてしまっているが、彼女のためにも一度本気で指導しなければいけないだろうと思っている。

一方の田中は、伊藤とは真逆の寡黙な性格で、とにかく自分の意見を表に出そうとしない。後で個人的に話をした際にはぽつぽつと考えを述べはするものの、大勢の会議の場などになると、途端に沈黙を貫いてしまう。

二人は同期のよしみで親しくしているようだったが、僕はそれぞれに別の接し方をしなければならないため、マネージャーの身としてはなかなか骨の折れる作業でもあった。

僕たちの前で信号待ちをしている中年男性が、信号の変わり切らないうちに歩き出し、横から滑り込んできたタクシーにクラクションを鳴らされる。よくある光景の一つだったが、隣に立つ田中が、クラクションの音に過剰に肩を震わせた。

「なにか悩みでもあるのか?」

とうとうしびれを切らし、僕は尋ねた。

「……今回のプロジェクト、僕は役に立てているのでしょうか?」

田中は今にも消え入りそうな声で、自分の爪先を眺めている。

「もちろん。すごく助かってるよ。田中がいなかったら、もっと時間かかっていただろうし、途中で計画自体も頓挫していたかもしれない」

信号が青に変わったので、僕たちは歩き出した。田中が何かを言ったが、雑踏の音でかき消されてしまった。僕は眉を上げ、上体を田中の方へ傾け、「もう一度言ってくれ」というニュアンスを表現した。田中が気持ちばかり大きな声で繰り返す。

「横井さんは、怖くないんですか?」

田中の声は震えていた。彼の性格を思えば、明日の会議はかなりのプレッシャーであるはずだ。

「そりゃあ、俺だって緊張してるよ。部署の売り上げがこの企画に懸かってるわけだし。もし受け入れられなかったらって思うと怖いな」

だけどさ、と慎重に言葉を選びながら後を続ける。「そうやって成長していくもんだろ? もちろん踏みとどまることなんて簡単だけど、前に進むこともない。人生ゲームだったら、ずっと振り出しにいる状態だよ。俺はそっちの方が怖いかな」

「そうですよね……明日、がんばります」

田中はぎこちない笑みを浮かべた。

「田中は休みの日とか何してるの?」

このまま重苦しい話題に終始するのも如何なものかと思い、僕は尋ねた。

「……いや、特に何も。映画を観るくらいですかね」

「じゃあ、あれ観た?」

僕は、現在公開中の大作映画のタイトルを口にする。

「いや、そういうのはあまり……」

「そういうの」が何を指すのかは明確ではなかったが、僕はなんとなく田中の言わんとしていることが分かったような気がした。いわゆる「娯楽映画」ではなく、単館劇場でかかっているような芸術性に富んだ作品を好むのかもしれない。僕自身はそういった作品の良し悪しは今一つ分からないのだが、純も田中と同様に単館映画が好きだったよな、と思い出す。彼女と田中は、ひょっとすれば話が合うのかもしれないが、ここで恋人の話題を出すのもどうかと思い、再び沈黙が続いた。

結局その沈黙を破ることはできないまま中野坂上駅に着いた。駅の雑踏の中に消えていく田中の背中はひどく小さく見え、すれ違う人波を不器用に避けながら消えていった。

3

マンションのエントランスへ入ると、同じように帰宅したばかりなのか、傘を畳むサラリーマンと鉢合わせた。
軽く会釈をしたが、向こうはそれを無視してエレベーターへと向かう。僕が郵便受けを覗いている間に、彼はさっさと扉を閉め上がっていってしまった。少しばかり待っていてくれたって構わないだろうと、内心で毒づく。

玄関の扉に手をかけると、鍵はかかっておらず、すんなりと開いた。純のパンプスが乱暴に脱ぎ捨てられており、僕は内心ドキリとした。彼女の帰宅を狙って誰かが押し入ってきたのではないか。そんなイメージが瞬間的に頭を過ぎった。

「ただいま」

「おかえり」

「玄関の鍵、閉めないと危ないよ。何かあったかと思っただろ」

僕がそう言うと、純は気だるそうに眉間に皺を寄せた。

「……疲れてたの。そんな時だってあるでしょ」

純が面倒くさそうにテレビの音量を下げた。部屋の隅に脱ぎ捨てられたジャケットに目が行く。瞬間、夕方に見た踊り場の男の姿が頭を過ぎった。

「何かあってからじゃ遅いだろ。鍵かけるのなんて疲れてたってできるし」

「はいはい、すみませんでした」

彼女は立ち上がると、テレビ台の隅に置いてあるメモ用紙を丁寧にちぎり、何かを書きつけた。それをダイニングテーブルに置き、彼女は無言のまま寝室へ向かった。

「おやすみ」

自然と吐き捨てるような口調になっているのが、自分でも分かった。彼女は何も言わず、寝室のドアを勢いよく閉めた。
テレビを消し、純のジャケットを畳みながら、どこでこうなってしまったのだろうと僕は考える。

純とは、二年前の夏に知り合った。「働く二十代女性へのインタビュー」と題して、ある文房具会社に取材に向かった。そこで働いていたのが純だった。

「文房具が、その人にとっての記憶媒体になってくれたらいい」と、彼女は言った。手に取るたびに、それを使っていた頃の記憶が鮮明に蘇る、そんな商品がお客様の手元に届くといい。彼女の話はいずれも示唆に富んでおり、人を惹きつける魅力があった。

「お気に入りの文具はありますか?」

僕が尋ねると、彼女は「一つには絞れませんが」と前置きした後に、筆入れから様々な文具を取り出し、まるで自分の子供をあやすような眼差しで、それらについて話し出した。当初の予定より遥かに時間は超過してしまったが、そんなことはどうでもよかった。

彼女がボールペンを手にし、くるくると踊るように手元を動かすと、その先から文字の連なりが生まれた。均整の取れた行儀のいい文字は、彼女の性格をそのまま映し出しているようにも思えた。

「やっぱり、字が綺麗なんですね」

思わずそう言うと、彼女は「やっぱり?」と尋ね返し、小さく微笑んだ。あの瞬間から、僕は純に惹かれていたのかもしれない。

すっかり音のなくなった部屋の中で、かつての記憶に思いを馳せていた。最近ではめっきり会話も減り、同じ部屋にいるのにすれ違ってばかりの生活が続いている。

先ほどまで彼女の座っていたソファに腰掛けると、ダイニングテーブルの上のメモ書きを手に取る。

『明日、大事な話があります。なるべく早く帰ってきてください。』

至って義務的な内容だった。彼女の字は走り書きのため斜め上がりになっていたが、それでも不思議とバランスの取れた文字で、そのことがなぜか余計に悲しかった。

4

出勤ラッシュはいつもホールが混みあっており、四基あるエレベーターでもさばききれず、長蛇の列だった。片桐さんは列の前方にいて、後ろから話しかけるのは気が引けた。遠目からだが片桐さんの後頭部には白髪が混ざっており、「やっぱり年上なんだな」となんとなく思った。

タイミングよく三基のエレベーターが同時に開き、コンベヤーで仕分けされるように均等に人が乗り合わせていく。扉が閉まる寸前に、タイミングよく片桐さんと同じエレベーターに乗ることができた。両肩を誰かに挟まれながら、首だけを後方に向け、壁際に立っている片桐さんとアイコンタクトを交わす。片桐さんはいつものように、人好きのする微笑みを浮かべた。

四階で僕たちは示し合わせたように降りる。喫煙所に向かうのが僕たちの日課だった。

「おはよーう」

片桐さんが、間延びした声で言った。

「宮原さんも煙草とか吸うんだねえ」

片桐さんがいかにも意外、というようにそう呟いた。片桐さんも、プレゼン会議の「説明を聞く側」のメンバーの一人だった。

喫煙所の自販機の横に陣取ると、僕たちはしばらく言葉も交わさず、ゆっくりと煙草を吸い続けた。黄ばんだ天井を煙が昇り、蛍光灯の周りには虫が飛んでいる。

「あれ? こんなとこにヒビなんて入ってたっけ?」

片桐さんが、寄りかかっていた柱の右ひじの辺りを見ながら言った。そんなことはどうでもいいじゃないか、とは思いつつ「どうでしたかねえ」と気のない返事をした。

「きっと、誰かが肘でもぶつけたんだな」

前から気になってたんだよこの柱、前に出すぎじゃない? と片桐さんが言う間、少しだけ純の顔が頭を過ぎった。

「煙草、前々から彼女に『やめてくれ』って言われてるんですよ」

僕は言った。

「ありゃ、それは拷問だ」

片桐さんがふふ、と笑った。

「そういう時って、『いいよ』って言えばいいんでしょうかね。でもさすがに、嘘は良くないかなって」

「うん、嘘は良くないね」

「なんか、最近彼女とはそんなやりとりの繰り返しで」

話しながら、「自分は純のことを誰かに話したかったんだ」と、僕は気づいた。片桐さんはうんうんと頷きながら、「わかるよ」と言った。

「だけどね、親しければ親しいほど、そういう気苦労は多くなっていくんだなこれが。俺も一回、禁煙したことがあるんだけどね」

「はい」

「ある日、奥さんが旅行に行きたいって言ってパンフレットを渡してきたのよ、海辺の綺麗な表紙の。で、その何ページ目かに夕日をバックにした灯台の写真があったんだけど、俺それが火のついたタバコに見えちゃったんだよね。もう限界だと思って、禁煙は諦めた」

「はあ」

「俺からの教訓が一つ」

片桐さんが再びヒビを指さした。

「我慢ばっかりしてると、ヒビが入る!」

「何ですかそれ」

思わず僕は吹き出してしまう。勢いよく吐き出した煙が目に染みて痛かった。

「よし、そろそろ時間だよ、戻ろう」

片桐さんに肩を叩かれた。片桐さんなりに気を紛らわせようとしてくれたのかもしれない。少しだけ胸が軽くなった気がした。

5

「もうすぐ21時ですが、このまま続けますか?」

僕と宮原以外の参加メンバー、伊藤、田中、井田、片桐さん、皆が無言だった。この会議をどう終わらせるべきか、皆見当がつかなかったのかもしれない。ただ、新企画プロジェクトのプレゼンが失敗に終わりつつあるということは、誰の目にも明らかだった。

なんでこうなってしまったんだろう──、混乱する頭で僕は必死に考えた。出だしは好調だった。伊藤が今回のプレゼンの主旨であるWebメディア企画を話し終えたとき、決裁委任役の片桐さんも井田もそれなりに身を乗り出していたように見えた。

ただ、その後の田中の説明があまり良くなかった。ターゲットユーザーへの訴求ポイントをたどたどしく話した後、運用プランについてはいくつか説明すべき箇所を飛ばしてしまい、そのたびに前後の繋がりが途切れ、聴いていた井田と片桐さんは何度も「ん?」という表情をした。──そこで僕がフォローに入っていれば、もしかしたら結果は変わったのかもしれない。でも、田中の面目もあるだろうと思い、「自分が代わりに説明してしまいたい」という気持ちをぐっとこらえ続けた。

田中は続いて、今回の企画のベンチマークにしていた他社の類似サービスの説明と、いかにそのサービスが優れているか、そしてその優れた点を上手に取り入れれば今回の新プロジェクトもうまく行くだろうということを伝えた。その内容は、僕が何度か伊藤と田中に話していたことだったが、プレゼンで伝えることは想定していなかった。

「すでに他社で同じことやってるサービスがあるんだったら、二番煎じになるんじゃないの?」

案の定、井田がそう指摘してきた。

「いや、まったく真似するわけじゃなくて、良いところを取り入れようってことだから。今回の企画の一番のウリは、そこじゃなくて」

僕は急いで井田にそう言ったが、彼は僕を一瞥しただけで何も答えず、眉間にしわを寄せながら手元の企画書に目を移した。

「なるほど、なんか既視感あるなぁと思ってたけど、あのサービスか。確かに、似てるね。これ」

味方になってくれると思っていた片桐さんも、企画書をパラパラとめくりながらそう呟いた。──いつの間にか、会議室に重苦しい空気が流れていた。なんとか流れを変えなくてはと、僕は(この状況からは、自分が説明役を担うべきだろう)と決めて、プロジェクトの要点を更に詳しく説明した。サービスの独自性から、収益への期待、現存サービスとのシナジー効果等──ときに自社の失敗事例や成功体験を織り交ぜながら、そして、井田と片桐さんの様子を窺いながら。

説明を続けていくうちに、僕はだんだんと喉の奥がつかえるような息苦しさを感じはじめていた。井田も片桐さんも、僕の話に相槌を打ちながらも別の視点で考察をし始めているのが見て取れた。僕の隣に座る伊藤と田中の表情が段々と暗くなっていくのが、視界の外から伝わってきた。

「あのさ、今うちの事業部の業績がどんどん落ち込んできているのは、知ってるよね」

僕の説明がひと段落ついたタイミングで、井田が急に優しい口調になってそう言った。──僕にではなく、伊藤と田中に向けて話しかけていた。

「その理由は、既存のサービスの売上が落ちてきているからだよね。でも、だからと言ってそれらサービスを止めてしまうわけにはいかない。なぜなら、それらに代わって売上を出していける新しいサービスがまだないからね。そうしたら、収益は完全にマイナスになる。
だから、みんな自分たちが運用するサービスがもう時代遅れで、そして衰退期にあることも自覚したうえで、その衰退の進行が少しでも緩やかになるように、歯を食いしばって取り組んでるわけだよね」

井田の淀みない説明が、この場をすこしずつ支配していくように感じられた。

「この新プロジェクトは、そんな閉塞感を打破していけるような、事業部の皆が希望を持てるようなものにしていく必要があると思うんだ。じゃないと、今既存サービスに必死に向き合っているメンバーに申し訳が立たないんじゃないかって。──君たちは、それくらいの想いと覚悟を持って、このプロジェクトに向き合えているのかな」

片桐さんが、井田に同調するように何度か大きく頷いてみせた。伊藤と田中は、井田の問いかけに答えられずにいた。僕も、そうだった。数分の沈黙が、──宮原が21時の通報を発するまで、続いた。

「横井クーン」

プレゼン会議が終わり、片桐さんがいつもの人懐っこそうな声に戻って声をかけてきた。いつの間にか、部屋は僕と片桐さんの二人だけになっていた。

少し前に宮原から、会議終了のアナウンスと共に、今後については明日井田と片桐さんが今回のプレゼン内容と所感を部長に報告し、その後部長からプレゼン通過可否を通達すること、そしてその通達は2日後になることを説明された。僕は宮原の説明を聴きながらも、ここからどうやったら挽回できるかを必死に考えていた。会議中に企画書の端にメモ書きした内容を見ながら、あるかどうかも分からない「次の打ち手」を探して続けていた。

呼びかけた声の方を見やると、少しだけ優しそうに目を細めた片桐さんが、そこに立っていた。

「あれは、良くなかったんじゃないかな」

片桐さんは、少しだけ優しい表情のまま、僕にそう言った。

「すみません、もうちょっとしっかりプレゼンの準備をしておくべきでした。後で少し相談させて──」

「いや、そうじゃなくてね」

片桐さんは僕の言葉を遮って、話を続けた。

「プレゼンのことじゃなくて、その後の、伊藤さんと田中くんに対してだよ」

「え?」

「ふたりとも、会議終わった後に心配そうに──というか、不安そうに、かな。ずっと横井くんのこと見ていたよ。だって、横井くんずっと頭抱えちゃって下向いたままだったから」

「あ……、そうだったんですか」

「ふたりのこと、全然気づかなかった?」

「──はい」

「そりゃ、良くないよ」

片桐さんはもう一度、そう言った。

「プレゼンがうまく行かなくて、一番苦しんでるのは、間違いなく君だろうけどさ。でも、そこでマネージャーはまず、部下のことを気遣ってあげなきゃ」

僕は急いでデスクに戻った。──そうだった。伊藤も田中もこの日のプレゼンの為に、毎日遅くまで残業して頑張ってきたのだ。彼女たちをきちんと労ってやらなければ。そして、これからまた気を取り直して頑張っていこうと、伝えておかないと。二人とも、デスクで僕のことを待っているかもしれない。会議室を出るときに、片桐さんが「これから大変だろうけど、めげずに頑張ってね」と励ましてくれた。

デスクに戻ったとき、何人かの社員はまだ残っていた。僕は伊藤と田中の姿を探した。でも、どこにもいなかった。二人の机がきれいに片付けられているのを見て、伊藤も田中も、会議室から戻ってからすぐに帰ったんだということを、僕は知った。

6

たった一駅ではあるが、足取りは重く、気分も沈みがちだった僕は、電車で帰路についた。先ほどの企画会議の熱がいまだに全身に籠っているようで、Yシャツは汗で背中に貼りついたままだった。

携帯を見ると、三時間ほど前に純からメッセージが届いていた。

内容は昨晩のメモ書きとまったく同じもので、改めて憂鬱な気持ちが押し寄せてきた。欲を言えば、今日は一刻も早く休みたかった。

駅前のコンビニで純の好きなケーキを買った。そんなことで彼女が機嫌を直すとは思えなかったが、何にでもすがりたい気分だった。

玄関の扉はやはり鍵がかかっていなかった。夜気に触れて冷たくなったドアノブを握りしめ、いつもより数段重く感じる扉を開けた。扉の向こうで笑顔の純が待っている、そんな淡い空想を抱いていた。

「ただいま」

「おかえり」

奥のリビングから、くぐもった彼女の声が聞こえた。僕は二日酔いの時のような胃の重みを感じていた。

「ごめん、会議が長引いちゃってさ」

努めて明るい声でリビングのドアを開けると、昨夜と同じ位置で、彼女がソファに座ってテレビを見つめていた。昨日と違うのは、テレビの電源は消されたままであることだ。

「話って何? すぐ終わりそうもない話なら、先に何か食べてもいいかな? 腹減っちゃってさ」

「……事前に連絡できる時間くらいあったでしょ?」

純が、ひどく緩慢な動作で僕の方を向いた。化粧を落とした後の顔は、いつも幼い印象を僕に与えるが、今日は違った。彼女は無表情のまま、視線の先は僕の顔というより、二人の間の何もない空間へ向けられているような気がした。

「それは謝るよ、悪かった。でも俺も大変だったんだ。ほら、前から話してたろ? 新企画の話。その会議が今日だったからさ、あまり他の事とか考える余裕なくて」

「大事な話があるって、昨日から伝えてあったはずだけど。何? 私の『大事』は、一茂くんの中では忘れてもいいくらいにどうでもいい事なの?」

「……そんなこと一言も言ってないだろ。どうしてすぐそうやって突っかかってくるんだよ」

内心ではよせばいいと分かっているのに、僕は大きなため息を吐いてしまう。これでは彼女の怒りに油を注ぐだけだ。
脱いだジャケットをダイニングテーブルの椅子の背にかけ、改めて純の前に座る。純はぷいと僕から視線を反らし、本棚の脇にある観葉植物に視線を向けた。

「純とのことだって、俺は真剣に考えてるよ」

僕が言うと、彼女は小さく鼻を鳴らした。

「考えてるって何を?」

「そりゃあ、あれだよ、この先のこととかさ。もうそろそろ付き合って二年が経つだろ? 結婚とか、そういうことを考えてもいいんじゃないかって思ってるよ」

しばらく沈黙が続き、耐えかねたかのように彼女が立ち上がった。本棚の方へ向かう純を、僕は横目で追うことしかできない。

「……今の私たちが、このまま結婚して、幸せに暮らせると思う?」

純は白い如雨露を手にすると、植物へ水をやった。植物が好きな純が、いつかの仕事帰りに買ってきたものだ。しかし、その植物の名前を、僕は覚えていなかった。はじめは数十センチにも満たなかったそれは、今では純の背丈を追い越しそうなほど成長している。まるで僕たちが同じ部屋で暮らし始めた月日の分だけ、成長を続けているようにも思えた。

「一茂くんも私も、今は仕事の忙しさに揉まれて、お互いのことが思いやれていないと思うの。今日だってそうでしょ? 一茂くんが忙しくしてるのなんて、私だって充分分かってるよ。それでも、私との約束を守らないのはまた別の話だと思わない?」

「そりゃそうだけど……」

僕は言い淀んだ。彼女の言うとおりだった。だけど、と思う。企画会議における僕の情熱は、以前から何度も彼女に説いてきたはずだ。それに対する労を、少しは労ってくれてもいいんじゃないか、そんな不満も湧き上がってくる。

「俺だって、急に昇進して戸惑ってるんだよ。それとも何、俺は一生平社員のままの方がよかった?」

「……だからそれは分かってるって。別に一茂くんの仕事に文句を言ってるわけじゃないの」

「純には俺の仕事のことなんか分かんないよ」

背中に鈍い衝撃があり、しばらくしてじんわりと背中のあたりが冷たくなった。純が、如雨露を投げつけたのだ。 知り合ってから一度として、彼女がここまで取り乱したことはなかった。僕は背中の濡れ具合を掌で確認しながら、何も言えず純を見つめた。

「どうしてそんな言い方しかできないの?」

純は言った。

「一茂くんはどうせ、昨日今日、私が急に機嫌が悪くなったくらいにしか思っていないんだろうけど」

純がブラウスの袖口で乱雑に目元を拭った。

「そんなんで、この先うまくいくはずがないでしょ?」

目元を拭う手を止め、純は静かにうずくまった。倒れた如雨露の先から細く水が漏れ、静かに床を浸していく。

うずくまる純を、僕はしばらくの間見つめていた。
 何かを言わなければならないとは思ったが、同時に「何で今日は、こんな目にばかり遭うのだろう」と思っている自分もいた。純の言葉を反芻しようとするほど、今日の仕事での一連のシーンも、頭の中を巡っていく。
 目の前の彼女を落ち着かせてやらなければいけなかった。しかしそれ以上に、「今日」を終わりにしたかった。この一日が終われば、明日はもう少しマシな一日になるのではないか。ほとんど祈るような気持ちだった。

それから僕は、純をどうやってなだめて話し合いを切り上げたか、そして二人で眠りについたのか、よく憶えていない。きっと、あまりに疲れすぎていたためだと思う。

そして目が覚めたとき、となりに純はいなかった。

[続く]

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