「愛について」【職場編】 部下に「愛情を持った対応」を行うにはどうすればいいのか?

[最終更新日]2023/11/06

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職場でよく聞くフレーズのひとつに、部下に対して「愛情を持って接しましょう」という表現があります。しかし、そう言われてもどんなふうに行動すればいいのか具体的に説明できる人は、そう多くないのでは?

なぜなら恐らく、「愛」という言葉のイメージが多様であり漠然としているからです。
さらには、「私は部下に対して愛情を持って接している」と自負している上司は数多くいても、部下がそれを実感できているケースは少ないように思えます。

なぜ「愛」は伝わらないのか。
今回は、職場での「部下への愛情」のかけ方について考察していきましょう。

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目次

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「部下になかなか自分の想いが伝わらない」と感じている人は要注意!

こんなに心をくだいて目をかけているのに、どうして分かってもらえないのだろう
良かれと思って敢えて厳しい態度で指導しているのに……
――そういった悩みを抱えながら部下に接している人は、要注意です。

「愛の鞭」なんて言葉もあるように、他人を「褒めて伸ばす」のは容易ではありません。

甘やかしたら駄目になるのではという不安や、もっとちゃんとやればきっと出来る!という期待のもと、つい過剰な愛情を注いではいませんか? 

そもそも「部下になかなか自分の想いが伝わらない」という認識には、2つの課題が潜んでいます。

ひとつは、上司と部下では立場や経験則が異なるため、見えているものや価値観に差が生じ、想いを100%過不足なく伝えることは不可能だということ。

もうひとつは、「伝えよう」「伝わって欲しい」という気持ちが強すぎると、支配や強制によるコントロール感が出てしまって逆効果になりやすいこと。

まずは一度、部下への想いを見直すところから始めてみてください。

「あなたのためを思って……」それって本当?

「あなたに良かれと思って」「君のことを認めているからこそ」といった枕詞が出てくるとき、そこには「言うことを聞かせたい」「相手より優位に立ちたい」という恣意的な働きかけが窺えます。

この自分の望む方向に他人を導きたいという姿勢は、エスカレートすれば「かわいさ余って憎さ百倍」という言葉が示すように、「愛しているから殺したんだ」などという極端な現象をも招く危険性があります。

思い遣りや親しみの押しつけが、ときに相手を苦しめ、不自由にさせる場合があることを承知している人は多いはず。前出のような枕詞を冠した内容は、仮に正統性や論理性に欠けていても「私のためを思って言ってくれているなら……」「認めてもらっているならその想いに応えなければ」「叱ってくれるのはありがたい」といった歪んだ道筋を強いることにもなりかねません。

詩人で書家の相田みつを氏も言っています。「人の為と書いていつわりと読むんだねえ」と。
「あなたのためを思って」と口にしそうになったら、一旦深呼吸をして、改めて言葉を選ぶことを意識するといいでしょう。

「愛」や「愛情」という言葉が持つ「解釈の多様性」

愛の多様性

「愛」とは何か? 世間的には恋愛や性愛など相手を慕う情や恋心を指す場合が多いですが、自己愛・母性愛・隣人愛・人類愛・慈悲……といった、もっと広い人間関係での「慈しみ」や「思い遣り」を意味する「愛」とは、実に多様なもの

受け止め方や考え方の違いから、その解釈はさまざまで、他人と全く同じように共感したり、差異なく理解し合ったりすることは難しい概念です。その「愛」について、代表的なものから探ってみましょう。

仏教における「慈悲」とは

多くの日本人の身近にある仏教において説かれる「愛」=「慈悲」は、「抜苦与楽」のこと。『浄土論註』では「苦を抜くを『慈』と曰う、楽を与うるを『悲』と曰う」――つまり、「慈」とは抜苦の心で、「悲」とは与楽の心だと教えが記されています。

「抜苦」とは、苦しんでいる人を見るとじっとしていられず、何とかその苦しみをなくしてやりたいと願う気持ちのこと。

「与楽」とは、幸せを与えてあげたいと思う心です。これらがないのは、無慈悲な人だということになります。そして、この「慈悲」は一方的なものであって、決して見返りを求めません。

キリスト教における「隣人愛」とは

対して、「愛の宗教」として世界中に知られるキリスト教では、「愛」はアガペーとも云われ、「無償の愛」や「無条件の愛」「無限の愛」などが説かれています。

中でもとくに有名なのが、新約聖書で語られている「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉。ここからも解るように、隣人愛は自己愛を前提としているのです。

自己否定に陥っていると、隣人を愛することなど到底できません。

しかし、この「自己愛」はエゴイズムやナルシシズムといったものではなく、自己の欲望を野放しにすることなく、怒りや憎悪に振り回されず、社会の平和と心の平安のために自らの信念を持つ理性的な「愛」のこと。そして、隣人とは自分以外の全ての人を指しています。

儒教における「仁」とは

近年、ビジネスシーンにおいても『論語』に説かれている心の持ち様を仕事に活かす傾向が見られますが、「仁」はその『論語』において最も根本的な概念であり、儒教が示す「五常の徳(仁・義・礼・智・信)」のひとつ。

「五常の徳」は、社会を支える倫理規定であり、人々が目指す心のあり方なのです。とくに孔子が提唱した道徳観念としての、礼(儀礼や作法など社会の秩序を保つために不可欠な生活規範のこと)に基づく自己抑制と「他者への思い遣り」を指します。

現代の組織で見れば、「仁」のある人とは、高い徳を持ち、部下の信頼も篤く、適切な判断がなせる良きリーダーだといえるでしょう。

エーリッヒ・フロムが定義する「愛」

こうして「愛」を観念的に紐解いていく中で知っておきたいのが、エーリッヒ・フロム(ドイツの社会心理学・精神分析・哲学の研究者)が『愛するということ(The art of loving)』で定義する「愛」についてです。

エーリッヒ・フロム。ドイツの社会心理学、精神分析、哲学の研究者

参照:Wikipedia

多くの名言に充ちた同書には、愛は運命的なものではなく、意志や知性で行われるべきであり、そこには人格の成熟が不可欠だと記されています。

そして、「愛は能動的な活動であり受動的な感情ではない」と述べ、「愛される」のではなく「愛する」ことが大事だと伝えているのです。

フロムが提唱する「愛の技術」とは

フロムの言う、「愛の技術」とは

恋は「落ちるもの」という幻想が蔓延る中、フロムは「愛は技術である」と断言しています。

愛することは簡単だが、愛するに相応しい相手、あるいは愛されるに相応しい相手を見つけることは難しい――人々はそんなふうに考えている」と指摘し、恋に落ちるという感覚的な体験と愛の中にとどまっているという持続的な状態とを混同してはならない、と主張します。

相手を幸せにしたいと思う際、「自分が相手にどう思われようと与え続ける」という前提が重要だと言うのです。

そして、そのためには配慮(気遣い)・責任・尊敬・理解(知)の4つが必要だと述べています。

本能でも感覚でもなく、愛が「技術」なのだとしたら、人は誰でも意識し、努力することで、「愛する」ことが上手くなるということ。そう考えれば、少し道が拓ける気がしませんか?

愛情は「伝えよう」ではなく「与えよう」として行動する

フロムが提唱する「愛の技術」に欠かせない4つの要素を見ても、「与える」ことの大切さに気づくはずです。

配慮とは「愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけること」であり、責任とは「たいていは義務、つまり外側から押しつけられているものと見なされているが、本当の意味での責任は完全に自発的な行為である。『責任がある』ということは、他人の要求に応じられる、応じる用意がある、という意味である」。

そして、尊敬が「他人がその人らしく成長発展してゆくように気遣うこと」で、「人を尊敬するには、その人のことを知らなければならない。その人に関する知識によって導かれなければ、配慮も責任も当てずっぽうに終わってしまう。相手の立場に立ってその人を見ることができたときにはじめて、その人を知ることができる」と諭しています。

要するに、愛する能力は生まれつき備わっているものではなく、日々の生活の中で磨かれ、実践していくべきもの。その鍛錬を怠って伝わらないと嘆きのではなく、ただただ「与える」ことを意識してみることが肝要です。

部下への愛情は「与えるもの」として行動を振り返る

感謝や見返りを期待したり、自己満足や承認欲求を満たしたいがために、それらの想いを「愛情」という名に置き換えてはいないか、いま一度、自身の行動を以下の観点で振り返ってみてください。

  • 自らの希望と部下の希求について熟慮する
  • 「上司は部下よりも先の未来を見据えている」ことを活用する

どんなことも、最初の一歩は「意識すること」から始まるからです。「愛は与えるもの」と捉えて、部下に対する「配慮(気遣い)・責任・尊敬・理解(知)」があるかどうかを客観的に分析していく習慣を身につけましょう。

自らの希望と部下の希求について熟慮する

具体的には、自分自身の「偽りない想い(希望)」にしっかりと向き合い、部下が「本当に求めているもの」を深く探求し、互いのズレや隔たりについて正しく認識することが求められます。

愛があれば何でも許されるわけではありません。

愛だと信じているものが本当は「愛」を隠れ蓑にした別の感情かもしれません。

愛を言い訳に理解への努力を怠ってはいないでしょうか。自分の思い通りにならないことを「伝わらない」と言い換え、諦めてしまっていませんか。

「自分は部下をかわいがっているつもりなのに、部下からは迷惑がられて嫌われる」
「自分が上司を慕っているのに、上司からは誤解されて同僚ばかりが大事な仕事を任せられる」

──などといったすれ違いはどこでも起こり得ること。
だからこそ、自分本位な考え方を改め、相手が本当に求めていることを真剣に考える必要があるのです。

そのとき、ただ想像するだけでは限界があります。疑問や誤解をそのまま放置せず、言葉にして意思表示し、相手の考えに耳を傾ける関係性を築くことも忘れないでください。

「上司は部下よりも先の未来を見据えている」ことを活用する

「組織全体で考え、未来に向けて行動する」ことは、上司に求められる姿勢のひとつ。

多くの経験を経て広い視野で動くことができるからこそ、上司の姿勢や助言は部下への刺激や影響を生み出すことができるのです。

転ばぬ先の杖ではなく、転んだときに立ち上がれる力を身につけられるよう見守るのも上司の役目。また、転んだときに手を差し伸べることが必ずしも助けになるとは限りません。

その場しのぎではなく、中期的・長期的な目で見て、本当に必要なことは何か。相手に合わせて柔軟にカタチを変えながら、過度にならないヒントや道標の差し出し方を考えるよう意識してください。

長く生きているから偉いわけではありませんが、多く経験していることで活かせる術はあるはずです。いますぐに結果や成果が出ないこともあるでしょう。

思い描く部下の成長に向けて、相手が求めることを見失わないようにしてください。

「愛」という言葉のイメージに惑わされないように

愛は、意識的に育むことができる

自身の勝手な都合を「愛」という言葉で誤魔化したり、覆い隠したりせず、これまでの経験から培ってきた知識や技術を教え、信頼の相互関係を築きましょう。

相手の心に響く濃やかな思い遣りこそが愛情だとすれば、フロムが提唱するように、それらは意識的に育んでいくことが可能なのです。

愛は自然に湧き出てくるものではない、と承知しておくだけでも、部下への対応は改善できるのではないでしょうか。

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