「みんなで考えよう」は思考の品質が下がる?「集団浅慮(グループシンク)」と「悪魔の代弁者」について

[最終更新日]2023/11/06

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会議やブレストの場において、仲間やチームメンバーとで「みんなで考えよう」と一緒に知恵を出し合うという機会をふんだんに持つという方は、多くいらっしゃることでしょう。

さて、そのような「みんなで考えよう」というシーンにおいて、一見多数が集まった方がより妙案・良案が出そうなものですが、実際には「人が増えれば増えるほど思考の品質が高まる」というものでもないようです。

今回はそんな、「多数が集まることによってかえってって思考の品質が下がる」という傾向について、そしてその対処法について紹介していきます。


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「思考の品質」は人の数に比例するとは限らず、逆に低減することもある

多数が集まることで思考の品質が下がるリスクについて、もう少し具体的に紹介してみましょう。

例えば、社内の気心の知れた人達で集まって会議を開催すると、知らず知らずの内にその人たちの間で「今の私たちが持っている『雰囲気』や『秩序』を大切にしよう」とする意識が働くものです。

会議が進み、議論が一定の方向にまとまり始めると、そこで反対意見を出すことは「雰囲気や秩序を乱す」として、賛成意見以外を言いづらい雰囲気が形成される──といったこともあるでしょう。

一見「良案」にみえる意見においても、それが客観的に正しい、良いものなのかどうかよりも「和を乱さないか」であったり、「(まとまっていた話が)まとまらなくなってしまうのではないか」といった観点に重きを置かれてしまうのです。

こうしたケースは決して珍しいことではなく、例えば一部上場企業における役員クラスのミーティングにおいても、同様の傾向が見られることも少なくありません。

つまり、集団で考えているのにも関わらず、思考の品質が一向に高まらず、個人で考える際よりもかえって浅はかな思考に留まってしまうことは、往々にして起こりえるのです。


集団浅慮(グループシンク)とは

先に説明したような集団でのでの思考の際に品質が高まらず停滞していしまうことを、「集団浅慮(グループシンク)」と呼びます。

集団浅慮の状態になることにより、具体的には以下のような阻害・問題が起きやすくなると言われています。

  • 「集団で考えれば破綻しないだろう」という前提で考えてしまう
  • 自分たちにとって不利な情報を割り引いたり、無視・加工してしまう
  • その集団内では見出せない非倫理性や反道徳性などに目をつぶってしまう
  • 自分たちの状態を客観的に見れなくなる
  • 和を乱すことから異議を唱えにくい空気になる、無条件で少数意見を是正する圧力がかかる(裏を返すと多数意見に強い同調圧力と「正しい」という感覚が芽生える)
  • 個人的な疑念や問題意識を最小化しようとする
  • 正否は検証されないまま集団での決定的が絶対となり、それを破る意見からは一団となって守ろうとする圧力が生まれる

これら阻害や問題は、集団で思考した際には必ず発生すると一概には言えないものの、伝統的な日本企業のような集団の統一性や一体感を重視するカルチャーがある組織においては、よりこの傾向が強まるとも言われています。

思考は、「対立」があってはじめて発展の可能性を得られる──「悪魔の代弁者」について

前章の通り、多くのメンバーが集まることが必ずしも議論の発展に寄与しないということはしばしばおきます。

一方で、多人数で建設的な議論をすることは望ましくないのかというと、決してそのようなことはありません。

この記事を読まれている方々においても、過去に「集団で議論したことによって有益な気づきを得たり、満足できる意思決定をすることができた」という経験を持たれた方は多くいらっしゃることでしょう。

では、前章で述べた「集団浅慮(グループシンク)」のケースと、そうならない時のケースとの決定的な違いはどこにあるのでしょうか。

その問いのひとつの大きな解になり得るのが、「悪魔の代弁者」という概念です。

悪魔の代弁者とは、会議や議論の中で、多数派に対してあえて批判や反論をする人、またその役割を担う人のことを指します。

「悪魔」という言葉が入ると、何か禍々しい印象を受けてしまいそうですが、もともと「悪魔=デーモン」という言葉は古代ギリシア「ダイモーン(daimon)」から来ており、当時は「霊や守護神」を表す存在として捉えられていました。

古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、「私が何か間違ったことを考えたりしようとしたときに、どこからかダイモーンの声が聴こえてきて、それを制止しようと私に呼びかけるのだ」と言っていたそうです(「ソクラテスの弁明」プラトン著を参考)。

ソクラテス Socrates (B.C.469~B.C.399) 古代ギリシアの哲学者。「哲学の祖」ともいわれ、「汝自身を知れ」「無知の知」等、現代にも通じる思想を多く残す。相手との問答によって自分自身の矛盾に気付き正しい考えを持てる「問答法」を広めたが、権力者からの反感を買い、死刑を宣告される。多くの人がソクラテスの死刑を免れるよう働きかけたが、ソクラテスはあえて刑に甘んじ、その生涯を閉じた。

参照:wikipedia

現代において、「悪魔」のことをソクラテスのように友愛と神秘性をもって話す人はあまりいないでしょうが、それでも悪魔という言葉には「ふとした不安や疑問、気がかりなことに(否応にも)向き合わされる」といったニュアンスも多少なり含まれています。

つまり、「悪魔の代弁者」とは、「私たちに疑問や気がかりなことを投げかける存在」という、ひとつのメタファー(抽象概念)と説明することもできるでしょう。


「悪魔の代弁者」は、問題とその場を俯瞰的に捉え、より良い未来に向けての意見を述べられる人

さて、「悪魔の代弁者」は、多数派に対してあえて批判や反論をする人、またその役割を担う人と述べました。

そして、悪魔の代弁者は、私たちの議論をより正しい(望ましい)方向へと進めていくうえで大いに役立ってくれるというのです。

悪魔の代弁者は、単に多数派に反発するだけの存在であってもいけません。
重要なことは、集団の中でつい失われがちな客観性をもち、俯瞰的な立場から、議論している問題について多数派とは異なる建設的な意見を提示することです。

多数派の流れとは異なる意見が出れば、参加する人々は「今自分が指示している意見は、本当に正しい(適切)か」について振り返るきっかけに繋がり、また別の観点での意見やアイデアが出るということも起こりえます。

その結果出てきた多数の意見をまた収束していく際に、私たちは慣れ親しんだ集団の中で失われがちであった客観性を取り戻し、そしてこれまで信じていたものへの脆弱性に気付きやすくなり、以前よりも深掘りされた意見や見解に辿りつけるようになるのです。

組織・チームの話し合いで、思考の品質を高めていく為のポイント4点

さて、ここまで私たちが陥りがちな「集団浅慮(グループシンク)」と、その状況を打破しうる「悪魔の代弁者」の存在について説明しました。

もしかしたら、「そうは言っても悪魔の代弁者なんて、自分にはその役割はできなそう」であったり、「そもそも、集団浅慮(グループシンク)になっていること自体も気づきにくいのでは」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんね。

そこで、続いては、組織・チームでの話し合いにおいて、思考の品質を高めて建設的・客観的な議論を可能とするポイントについて紹介します。

ポイントは、集団浅慮(グループシンク)の状況を起こりにくくし、かつ必要に応じて誰もが悪魔の代弁者になれる「環境」を培っていくことです。──以下4点をご覧ください。

  • 組織・チームの「共通の目標」への意識を高める
  • 集団浅慮(グループシンク)が発生しやすい条件・環境を知っておく
  • 自身または他者の「正常性バイアス」「同調バイアス」の発生を、敏感に感知できるようにする
  • 弁証法における「アンチテーゼ」と「ジンテーゼ」を大切にする

それぞれ、順を追って見ていきましょう。


組織・チームの「共通の目標」への意識を高める

まず大事なことは、その組織・チームが共通して持つ「目標・ゴール」をしっかり意識することです。

参考:共通の目標を持つチームと、そうでないチームの違い  共通の目標を持つチーム =目標に向けての建設的な議論がなされやすい  共通の目標があいまいなチーム =目標に向けての議論より、そのときどきの空気や雰囲気が尊重されやすい

上記の図は、共通の目標を持つチームと、そうでないチームの違いを視覚化したものですが、左のチームと右のチームで「両方のチームを経験したことがある」という方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。

共通の目標を有しない集団は、得てしてその推進力が停滞し、意見発信の際も対立が起きやすくなるものです

その対立自体は決して悪いことではないでしょうが、関わる人たちは「対立するよりも、ストレスなく、穏便に進めたほうが良いだろう」という、いわば迎合的な意識が自然と高まり、結果として集団浅慮(グループシンク)の状態に陥りやすくなってしまうのです。

一方で、そもそも組織・チームは「共通の目標を持つ集団」と言い換えることができます。共通目標への認識があいまいな状態では、その組織・チームの推進力も大きく低減してしまうことでしょう。

集団浅慮(グループシンク)に陥らないという点だけではなく、組織・チームとしてのパフォーマンスを健全に高めていくうえでも、「共通の目標への意識」は是非ともしっかり持っておくべきです。


集団浅慮(グループシンク)が発生しやすい条件・環境を知っておく

続いてのポイントは、思考の質を下げてしまう源泉になる「集団浅虜(グループシンク)」が発生しやすい状況を理解しておくことです。

ちなみに、集団浅虜(グループシンク)が発生しやすい条件は以下の3つになります。これらが合わさった時に、集団浅虜(グループシンク)に陥りやすい集団が発生します。

  • ①団結力のある集団
  • ②構造的な組織上の欠陥の存在
  • ③刺激・ストレスの多い状況

①の「団結力のある集団」は、それ自体は組織としては望ましいことなのですが、それゆえに意見やアイデアが似通ってしまい「(これまでのやり方を改め、)現状を変革していく」為の考えは形成されにくくなってしまうこともある…、ということですね。

②の「構造的な組織上の欠陥」とは、例えば以下の状況・状態を指します

  • 組織・チームのリーダーがメンバーの発言機会や公平性を担保していない
  • 組織・チーム内で守るべき規範(ルール)・モラルが、不完全または欠如している
  • 組織・チームのメンバーにて、自身の組織・チームへの帰属意識が著しく欠損している

③の「刺激・ストレスの多い状況」とは、関わる人たちが常に精神的負荷の大きな環境下にあり、新たなストレス・負荷を回避しようとする意識・無意識が高まった状態を指します。

これら状況・状態にいるとき、集団浅慮(グループシンク)に陥りやすくなることは想像に難くありません。
有益な議論・話し合いを活性していく為には、まず環境を整えることが大切だということですね。


自身または他者の「正常性バイアス」・「同調バイアス」の発生を、敏感に感知できるようにする

正常性バイアス・同調バイアス。「正常でいること」を追求する心の働き。「周囲の人に合わせよう」という心の働き。

人は誰しも、多かれ少なかれ「正常性バイアス」「同調バイアス」という本能的な働きかけを持つものです。

正常性バイアスとは、「正常でいること」の望ましさを追求する心の働きかけを言います。この働きかけが強すぎると、異常なできごとを過小評価して「いつも通りである」と思い込もうとすることがあります。

後者の同調バイアスとは言葉通り「周囲の人たちと調子を合わせよう」という心の働きかけ、およびその際に得られる心理的安心感を得ようとすることを言います。

同調バイアスは協調性のある意識・行動に繋がることもありますが、この働きかけが強すぎると自身の独自の考えを押し殺してしまう、少数派の考え・意見への対立意識を過剰に持ってしまう等のリスクがあります。

「正常性バイアス」「同調バイアス」は、前述の集団浅慮(グループシンク)のきっかけにもなりえます。

残念ながら、これらバイアスは人間の本能的なものなので、完全に排除する事は実質不可能でしょう。
ですが、自分に今「バイアス」かかっているかもしれないと自己認識を持つ事で、改めて自分を活発な議論を行う方向に向かわせることはできるはずです。

つまり、バイアスを完全に排除することはできなくとも、バイアスの存在を理解することが大切なのです。


弁証法における「アンチテーゼ」と「ジンテーゼ」を大切にする

組織・チームの議論においてより品質の高い結論に至るための具体的手法としては、「弁証法」を活用するとよいでしょう。

弁証法とは、ドイツの哲学者ヘーゲル(1770-1831)の提唱した「真理(より高次元の見解)」へと辿るための思考プロセスのことです。

フリードリヒ・ヘーゲル Georg Wilhelm Friedrich Hegel  (1770~1831) ドイツの哲学者。 「唯物論」(物質)的な世の中の認識ではなく、「精神」・「理性」といったものによって世の中のあり方を捉えるとした「ドイツ観念論」を大成させた人物。ヘーゲルは、自然界や人間の歴史を「絶えざる運動」として捉え、その仕組みを「弁証法」によって説明し、弁証法の論理を確立した。

参照:wikipedia

弁証法は至ってシンプルで、具体的には次の三段階のプロセスで進めていきます。

  • 1.テーゼ(命題…ひとつの見解)が提示される
  • 2.テーゼに対するアンチテーゼ(反命題…テーゼに反する見解)が提示される
  • 3.テーゼとアンチテーゼとの対立を経て、両社の矛盾を解決するジンテーゼ(統合案…より高次元の見解)が提示される
ヘーゲルの「弁証法」 ○ひとつの見解(テーゼ) ○反対の見解(アンチテーゼ) →対立によって、思考の高まりが起きる(アウフヘーベン) → より高次の見解(ジンテーゼ)

端的にいうと、二つの相対する事柄や意見があった際に、どちらか一方を取り入れるのではなく、更によい三つ目の解決策を見つけ出すということです。

弁証法は、「より高次元の見解に到達する為には、テーゼに対するアンチテーゼが必要不可欠である」という考えがベースにあります。意見の対立なしに発展はない──ということをヘーゲルは言わんとしているのでしょう。

そして、前章でお話した「悪魔の代弁者」は、まさに2.のアンチテーゼを提示する役割になります。
チーム・組織で弁証法の考えを意識・共有することで、「悪魔の代弁者」の存在を大切にしていこうという風土・環境にしていくきっかけにもなるのではないでしょうか。

まとめ)「みんなで考えよう」という行為を、より発展的かつ有益な機会にしていく為に

ここまでお読みになられて、いかがでしたでしょうか。

悪魔の代弁者にあるような、「多数派の意見やこれまでの当たり前とされていた事柄に対して異を唱える」という行為は、少なからずの勇気が必要になるものです。
更には、その際は仲間意識やその集団内における心理的安全に伴う、多少のリスクが生じるときもあるでしょう。

ですが、ヘーゲルの弁証法においては、より良くしていく為には悪魔の代弁者のような反対意見(アンチテーゼ)が不可欠だといいます。

もしかしたら、私たちがまず考えるべきは「みんなで考えよう」という行為自体の、「望ましい形」についてなのかもしれません。

仲間で時間を共にして一つの課題・テーマについて語り合うことは、その機会自体が貴重なものです。その機会を大切にする一方で、それだけに終わらず更にその時間を有益なものにしていくために、どのようなことを意識していくべきか──。そんな問いを探求し続けることで、集団浅慮(グループシンク)は起きにくくなるように私は感じますが、皆さんはいかがでしょうか。

この記事が、皆さんの日々の業務やコミュニケーションにおいて少しでもお役立てできることを、心より願っております。

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