管理職・マネージャーは、結果を「善悪」で判断しすぎてはいけない?
[最終更新日]2022/12/15
管理職・マネージャーにとって、部下の仕事を「評価」したり、好ましくない言動を戒めたりするのは重要な任務の1つです。おそらく多くの企業において、管理職は部下の模範となるべき存在のはずですし、役職に就いた人は相応の自覚を持って仕事に取り組んでいることでしょう。
ところが近年、名だたる企業の不祥事が報じられているのを耳にすることがあります。事業を通じて社会に貢献しようとしている企業において、なぜそのような不祥事が起きてしまうのでしょうか。「善悪」や「正しさ」について、少し掘り下げて考えてみましょう。
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目次
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そもそも、「正しい」とはどんなこと?
「正しい」という表現には、科学的命題と価値的命題がある
私たちは、ふだん何気なく「正しい」という言葉を使っています。「正しい」の反対は「間違い」「誤り」であり、そこには何ら問題がないようにも思えます。
天文学者ガリレオ・ガリレイの有名な言葉に「それでも地球は動く」というものがあります。コペルニクスの地動説を観測によって実証したガリレオは、現代の科学的見地からすれば「正しい」ことを述べていました。
ところが、当時のカトリック教会は地動説を認めず、ガリレイを異端裁判にかけ有罪を言い渡します。このときガリレオがつぶやいたとされるのが「それでも地球は動く」なのです。
ガリレオが唱えた説は科学的には正しいにも関わらず、当時の人々の常識や信念を脅かすものと見なされ、受け入れられませんでした。
つまり、科学的命題として正しいことと、価値的命題として正しいこととは必ずしも合致しない場合があるのです。ガリレオのエピソードは中世ヨーロッパでの話ですが、「正しさ」には科学的命題と価値的命題の二面性があることは、現代においても重要な視点になる場合があるのです。
職場では、結果の正しさについて「価値的命題」としてアプローチするが…
次の事例について考えてみましょう。
Aさんは古参の社員で、部署内の業務を最もよく理解している人物です。
しかし、Aさんの下についた若手社員はすぐに辞めてしまうことでも有名でした。Aさんは後輩を指導する際、たびたび「常識」「当たり前」という言葉を使います。決して高圧的な言い方ではなく、Aさん自身は本心からそう思っているのです。
ただ、Aさんにとっては当たり前のことでも、部署内でしか通用しないローカルルールも多いため、新卒社員はもちろんのこと、業界経験のある中途社員が入ってきても、なかなか仕事を覚えられません。結果的にAさんだけが自部署の業務の全容を把握し、「Aさんに聞かないと分からない」ことだらけになってしまっています。
この事例で、Aさんは管理職にとって扱いが難しい人物と言えるでしょう。たしかに仕事はできるのでしょうが、後進を育てる資質を欠いている上に、見方によっては仕事を属人的なものにし、会社の業務を私物化しています。
管理職としては「段階を踏んでていねいに後輩を指導してもらいたい」「業務を標準化して分担できるようにしてほしい」と考えるはずですが、Aさんの側は「私は責任を持って仕事を遂行している」「自分は責任感が強い」と考えている可能性があります。
このように、置かれた立場や環境によってものの見方が変わるため、価値的命題による「正しさ」を共有するのは決して容易なことではありません。
「悪」については、どう定義するのが良いか
前項では「正しさ」は曖昧なことが多く、置かれた立場や環境によって変化する可能性のある相対的なものであると述べてきました。では、「悪」についてはどうでしょうか。
「悪とは何か」という問いは、非常にシビアで難しい問題です。歴史を見ても、ある時代には善と信じられてきたものが、時代が進むにつれて悪へと変化した事例は数多くあります。「悪」もまた、簡単に決めつけてしまうと危険な概念の1つと言えそうです。
そこで、「悪とは何か?」を考え抜いた2人の学者について見ていきましょう。私たちがふだん「悪」をどう捉えているのか、客観視するためのヒントになるはずです。
心理学者エーリッヒ・フロムの提唱する、「衰退のシンドローム」
悪と聞くと、犯罪や暴力などを想像するかもしれません。そもそも悪人だから悪行を働くのであって、悪人でない大多数の人には関係がない、と。
では、記事の冒頭で触れたような、企業の不祥事の場合はどうでしょうか。発覚すれば十中八九、大問題となることに気づいていながら看過されてきた不正や、結果を追い求めるあまり不正に手を染めてしまった事例がほとんどではないでしょうか。
ここで重要な点は、「はじめから悪人の集団だったわけではない」「悪事を働こうとしてやったわけではない」というところです。では、なぜ一流企業の不祥事が後を絶たないのでしょうか。
心理学者エーリッヒ・フロムは、著書「悪について」において、以下の3つを「悪の病理」であると述べています。
ネクロフィリア…
一般的には「死体愛好」を指しますが、広義的には「生命が誕生する前の状態に遡ること」や「変化を受け入れず不変的なもの固定的なものに偏執する」思想や行為も含まれます。ナルシシシズム…
自己愛。自身への関心度合の高さから周囲(他者)を受け入れられなくなってしまう状態を言います。近親相姦(共生的固着)…
肉親への過度な依存・固執により、精神的な退行や、閉鎖的環境を発展させてしまうことを指します。
これらを組織で働く私たちに置き換えてみましょう。
たとえば、「自社の伝統を守りたい」「今のポジションで仕事を全うしたい」「家族を守っていきたい」といった思いを、多くの人が抱いているはずです。
しかし、こうした思いに歪みや偏りが生じることで、時として硬直化した考えや排他的な思考に陥ってしまう原因となることもあるのです。裏を返せば、誰もが「悪」へと傾倒していく危険性を秘めている、と言えるでしょう。
「凡庸さ」に潜む悪に注視した哲学者ハンナ・アーレント
あなたは、今までにこんな言葉を口にしたことはないでしょうか。
「上の指示通りにやっただけです」
「クライアントの要望通りに進めたらこうなった」
実は、こういった言葉の中にも深刻な「悪」が潜んでいることがあります。
哲学者ハンナ・アーレントは、ユダヤ人大虐殺の首謀者アイヒマンが裁判で証言した際の言葉に注目します。アイヒマンは「上から言われたことをしただけです」と証言したのです。結果的にアイヒマンには死刑が宣告され、執行されます。当然のことのように、世間はアイヒマンを未曾有の極悪人として糾弾していました。
ところが、アーレントの見解は違いました。アイヒマンは「ただの小役人」であり、あまりにも凡庸だと言うのです。アイヒマンが述べた「言われたことをしただけ」は本心から出た素朴な言葉であり、生まれながらの極悪人などではなかった、と考えたのです。
ここには重要な示唆が含まれています。「言われたことをしただけ」という行為には「思考」が伴っていません。自分の頭で考え判断することを放棄することで、凡庸な者が凄惨な悪行を働くことにつながりかねない、とアーレントは考えました。言い換えれば、誰でも意図せず悪に手を染める危険性を秘めています。「アイヒマンはあなただったかもしれない」のです。
どちらの考えも、「悪」の所在を「結果」に対してではなく、「進行時(プロセス)」に見出している
フロムとアーレントに共通しているのは、「悪」という絶対的な何かがあるわけではなく、ごく普通の人でも気づかないうちに悪に手を染めてしまう可能性がある、という考えです。結果の良し悪しではなく、プロセスにおいて偏りや歪み・あるいは思考停止といった問題が生じていることに着目しています。
私たちは、ともすれば結果に対する評価として「正しい」「悪い」といった見方をしがちです。しかし、表面的には正しいように見えることの中にも「悪」の芽が紛れているかもしれません。また、「悪い」と判断した管理職自身の思考プロセスそのものに予断や偏見があり、結果を適切に評価できていない可能性もあるのです。
このように「悪」については、結果だけを見て定義するのではなく、プロセスを含めて評価を熟考することが重要なのです。
見方によっては、「正しい結果」も正しくなくなる
「正しい結果」は本当に正しいか
ビジネスでは、一筋縄ではいかない多様な要因が絡まって結果が導き出されている場合があります。たとえば、次の事例における「正しい結果」は、本当に正しいのでしょうか。
【事例:学習塾の教室運営と生徒募集】
学習塾Bは数年前から教室展開に注力しており、毎年10〜15教室のペースで拡大を続けている。新規開校した教室が採算ベースに乗るまでには期間を要するため、既存教室の売上を伸ばす必要があった。
教室長N氏は郊外の教室を担当していたが、すでに講師不足が慢性化するほどの生徒数が通塾していた。しかし、本社の方針により生徒数を現状の1.3倍以上に増やさなくてはならない。N氏は生徒募集に邁進し、目標を上回る生徒数の確保に成功した。この功績によってN氏は社内の教室売上トップに輝き、社長賞を授与された。
ただ、担当教室の実態は悲惨であった。講師不足のところへさらに生徒を増やしたために、本来は講師1対生徒2で授業をすべきところを、「今日は先生が体調不良でお休み」などと生徒・保護者にくり返し嘘をついて1対4や1対5で指導せざるを得なかった。
講師募集をかけたものの、学生アルバイトの応募はない。当然のことながら指導に手が回らず、その年の受験生は指導不足のまま入試を迎えてしまい、不合格者が続出した。不合格となった生徒の大半は「自分自身の努力不足だった」と反省しており、保護者からも塾を責めるようなクレームは入っていない。
この事例では、N氏は会社が求める成果をあげ、顧客からのクレームはなく、見た目上は問題なく「正しい結果」が出ているように見えます。
しかし、結果に至るプロセスにおいて顧客との約束事を守らず、十分なサービスを提供できていません。表面的には正しい結果に見えても、N氏の内面に「申し訳ないことをした」という罪悪感が残り続けるのではないでしょうか。
かといって、「悪いことなど、何一つない」という考えも危険
上の事例で、仮にN氏が「誰も怒っていないのだから、自分は悪いことなど何一つしていない」と開き直ってしまったらどうでしょうか。その時点からN氏の倫理観は崩れ始め、いずれはより大きな嘘や不正に手を染めたとしても意に介さなくなるかもしれません。
正しく見えることは本当に正しいのか、どこかに悪が隠れていないか、主体的性を持って考え自省することはとても重要です。どちらが正解、という明確な答えがないからこそ、考え続けなくてはならないのです。
「正しさ」と「悪」は二律背反ではなく、見方しだいでさまざまな解釈が可能な「まだら模様」であることがほとんどです。管理職の方はとくに、「確実に正しい」「間違いなく悪い」と決めつけてしまうこと自体にリスクが潜んでいることを認識しておく必要があります。
大切なことは、すべての経験を「これからの成長・未来」に繋げていくこと
さて、本題に戻りましょう。管理職・マネージャーは部下が出した結果に対して「良い/正しい」「悪い/間違っている」といった判断をしがちです。ただ、ここまで見てきたように、「正しさ」や「悪」は非常に曖昧なものであり、見方や立場によって判断が大きく変わっても不思議ではありません。管理職・マネージャーの方は、安易に物事を善悪の二元論で判断すべきではないのです。
では、どうしたら「正しい」「正しくない」という見方を避けられるのでしょうか。
「正しい・正しくない」よりも、「その結果から何を得たか(学べたか)」に注目する
善悪を断定してしまいがちなのは、「結果」にフォーカスし過ぎているからです。その結果に至るプロセス、さらには結果から得たもの(今後につながること)を見出だすことで視野が広がり、局所的なものの見方を避けられる可能性が増すはずです。
たとえば、次のような考え方を心がけてみるのも有効な方法です。
- なぜその結果に至ったか、客観的に原因をトレースする
- 意識的に主観を排除し、事実ベースで検証する
- 正しく見える結果を得た場合も、反省すべき点がなかったか振り返りを行う
- 好ましくない結果だった場合も、評価できる点があったはずという視点で見る
- 結果の良し悪しで思考を止めず、そこから何を学べたかを深掘りする
人の価値観は多様ですので、各々が自分の価値的命題に固執してしまうと、同じ方向を向いて仕事を進めることが不可能に近くなります。また、一見すると結束が固いように見える組織であっても、実は偏った思い込みが各々に刷り込まれ、共有されている状態という場合もあるのです。
結果に対して善悪のレッテルを貼ってしまうことなく、なぜそうなったのか・そこから何を得たのか、を考え続けることこそが重要なのです。
善悪を決めつけそうになったら「ひと呼吸おく」習慣を身につけよう
管理職・マネージャーの方は、さまざまなタイプの部下と関わっていかなくてはなりません。内心では「おかしい」「間違っている」と感じたとしても、そこで善悪をすぐに決めつけてしまわず、まずは「ひと呼吸おく」ことから習慣化していきましょう。
そうすることでプロセスを振り返ったり、結果から何を学べたかを冷静に分析したりするための気持ちの余裕が生まれるのではないでしょうか。結果を善悪だけで判断せず、プロセスや背景を考慮していることが部下に伝われば、思慮深い上司として信頼を得ることにもつながっていくはずです。
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